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魚釣五郎(30才)うおつり ごろう。あだ名は“釣り五郎”。職場は海川商事。好きな寿司ネタはエンガワ
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鰒田一平(52才)ふぐた いっぺい。魚釣五郎の上司。休日は釣り三昧。好きな寿司ネタはヒカリモノ
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舟山杜氏(68才)ふなやま とうじ。五郎が勝手に“師匠”と命名。神出鬼没のアングラー。好きな寿司ネタは赤貝
仕事を切り上げて定時に退社する課長を追ったことで、夜釣りの存在を知った五郎。はじめて挑んだ夜アナゴの釣果は1匹に終わった。大物のマハタを釣り上げるなど、腕をあげてきた五郎にとって不本意な結果と思いきや、充実した釣行だったようだ。
その日の潮の流れや海の地形、そして魚の活性を見極めながら、誘い方や仕掛けを工夫するのが釣りである。結果的に釣れれば最高だが、釣れなくても、見えない海の中を想像しながらの試行錯誤がアングラーにとっての喜びだと気づきはじめたのだ。
まぐれで魚があがったとしても、腕の向上にはつながらない。その点は営業の仕事と似ていた。たまたま契約が取れたとしても、なぜ獲得できたのか、その理由がわからなければ、次の契約につなげることは難しいだろう。
そういう意味で、悪戦苦闘の末に釣り上げた1匹のアナゴには、大きな学びと釣る喜びが詰まっていた。早く課長とこの気持ちを分かち合いたいと、五郎は願っていた。
課長からターゲットを指定されるなんて、思いもよらない事態だった。しかし、クリアすべきクエストを与えられたようで、五郎の胸は躍った。釣りをはじめて以来、課長との距離が近くなってきたような気がする。
以前は目上の男性との会話が苦手で、営業先はもちろん、社内でも馴染めていないと感じることが多かった。課長にも怒られてばっかりだったのに。共通の趣味があるだけで、年の離れた課長とも自然と会話ができるなんて。あらためて釣りをはじめて良かったと五郎は感じていた。
それにしても、フグなんて釣ることができるのだろうか? まともに食べたこともなく、どこでどうやって釣ればいいのか見当もつかなかった。仕事を終え、五郎はフグ釣りについて調べはじめた。
日本近海には50種近いフグが生息しているといわれる。なかでも釣り物として人気が高いのは高級食材として知られるトラフグ、冬が旬でフグの女王の異名を持つマフグ、そして手軽で1年中釣ることができるショウサイフグだ。
最も耳慣れないのが、ショウサイフグだが、とても美味で、秋になると数が狙えるとあって、船宿には多くのアングラーが集うそうだ。よし、ショウサイフグに決めた! この時期は東京湾や外房などからショウサイフグの釣り船が出ている。五郎は横浜・鶴見にある新明丸に予約を入れることにした。
釣りの前日、五郎は釣具屋さんにいた。自前の竿にこだわり、アナゴの繊細なアタリに気づけなかった反省から、道具や仕掛けを揃えにやってきたのだ。店員を捕まえ、はじめてのショウサイフグだと伝えると、丁寧に教えてくれた。
「カットウ釣り」と呼ばれる手法がフグ釣りのトレンドで、エサを付けた親針でフグをおびき寄せ、親針の下に付けたカットウ針と呼ばれるイカリのような形状の針で引っかけて釣るのだという。
また、竿選びも重要で、竿先がしなりやすい先調子と呼ばれるものを使うことを勧められた。カットウ針で引っ掛けるためには、フグがエサを食べているタイミングを見計って、仕掛けを引っ張る必要がある。
海中の様子は見ることができないので、手元に伝わる小さな振動や、竿先の微かな揺れが頼りになるという。大物や引きの強い魚を想定している、しなやかに曲がる竿や、先調子でも比較的、柔らかく設計されている竿ではフグの当たりに気づかず、エサだけ取られるハメになってしまうそうだ。
それでも以前なら、「同じ魚なんだし、竿が柔らかくても大丈夫でしょう」と鷹を括って、アドバイスに耳を傾けなかっただろう。しかし、夜アナゴで痛い目にあった五郎は、竿の重要性を理解していた。「よし、竿も新調するか!」と、あっさり購入を決意し、店員を喜ばせた。
翌朝、鶴見まで急ぎ、受付を済ませると、釣り船に乗船した。ほぼ満席だ。あらためてショウサイフグ釣りの人気を実感した五郎だった。7時になり港を出発すると、船は木更津の方角を目指し、東京湾を疾走する。
1時間ほど走っただろうか、ようやく船長はスピードを緩め、イカリを下ろした。この日は波もなく、風もほとんどない、釣り日和。がぜん爆釣への期待が高まる。
船長からエサの付け方をレクチャーしてもらい、新品の竿に手をかける五郎。「どうかショウサイフグが釣れますように」と祈りながら、仕掛けを投げ込んだ。底に重りが届いたのを確認すると、リールを巻いて、糸の弛みを解消する。そして、五郎は竿の先をじっと見つめ、アタリが来るのを待つのだった。すると、すぐに隣から声をあがった。
「お、さっそく来たかもしれないね」
見ると、師匠だった。もうこの光景に五郎は慣れている。師匠は笑みを浮かべながら、リールをよどみなく巻いていく。白い魚影が見え、あっという間に船に魚を取り込んだ。
「なんだサバフグか〜、残念」
てっきりショウサイフグかと思ったのだが、サバフグという別のフグだとか。それでもうらやましい。師匠のヒットが合図だったかのように、船のあちこちから「掛かった!」という声が響いていく。
しかし、五郎の竿にはまったく変化がなく、夜アナゴの苦い経験が蘇ってくる。師匠が2匹、3匹と着実に数を伸ばしていくなか、静かに竿を持つ五郎。自分が気づかないだけでショウサイフグはエサを取りに来ているのかもしれないと、ときどき仕掛けを回収して確かめるが、かじられた様子もない。
けっきょく五郎は手応えすら掴めないまま、次のポイントへ移動となった。その道中、茫然とする五郎の耳にベテランたちの会話が入ってきた。
「潮の流れが早いね、今日は。アタリを取るのは、ちょっと難しいかも」
「でも、その分、活性はいいよ。釣れている人もいるわけだから、ほかの人の釣り方を見て、学ばないヤツは上手くならないんだよ!」
その言葉は五郎の胸に刺さった。そうだ自分はまだまだ未熟者。しかも、ショウサイフグは初めて。いきなり上手く釣れるわけがない。五郎は師匠の手捌きを、ジッと観察することにした。
移動したポイントで再び釣りがはじまる。しかし、あいかわらずアタリはない。師匠の釣り方を見ても、自分と何が違うのかさっぱりわからなかった。
同じようにしているつもりなのに、師匠の竿にはフグが掛かり、自分のほうには何の反応もない。しかも、師匠は数メートル先にいるのだ。パニックに陥っている五郎を見かねたのか、船長が声をかけてきた。
「アタリがわからないなら、空合わせをしてみたらいいよ」
空合わせ(からあわせ)とは、アタリを感じていなくても、3秒に一度くらい、竿を立てることで、フグを引っ掛けるという釣り方だ。何度もそれを繰り返すうちに、いつしかフグが掛かるのだという。アタリがわからない初心者向けの釣り方なのだ。
そこから五郎はマシーンのように、船長に言われたことを続けた。仕掛けを投入し、底に着いたら、糸の弛みを巻き取り、ピンと糸が張った状態をキープ。続けて3秒カウントしたら、竿を立てて、空合わせを行う。海底にいるショウサイフグの様子を想像しながら、黙々とルーティーンをこなすのだった。
いったいどれくらい時間が経っただろうか? 五郎が立てた竿にズシリとした重さを感じた。ついに来た! 慌ててリールを巻く五郎だったが、ドラグを緩めていたせいで、一瞬、リールが空回りする。
ドラグというのは、大物や引きの強い魚がかかったときに、糸が切れないよう、わざと糸を繰り出すようにしておくリールの機能だ。案の定、五郎の竿が急に軽くなった。
「フグの場合、ドラグを緩めておく必要はないよ。カットウ針は、魚が外れないようにするための返しがほとんど付いてないから、テンションが緩むと抜けちゃうんだよ。だから一気に巻かないとダメだよ」
と船長がアドバイスをくれた。せっかく掛かったと思ったのに……。五郎は千載一遇のチャンスを逃してしまった。その後もあきらめず、空合わせを続ける五郎に再び魚が掛かった。帰港の時間を考えると、おそらく最後のチャンスだろう。
船長の言葉を胸にリールを巻き続ける五郎。疲労と焦りで、額に汗がにじむ。水深が浅かったため、すぐに魚影が見えた。やったショウサイフグだ! やっとの思いで釣れた一匹は格別に嬉しい。
釣れなくても、上級者のアドバイスを信じて、実直に続けること。そこには先人たちの知恵が詰まっているのだ。ぐうぐうと鳴くフグを手に、五郎はまたひとつ何かを掴んだ気がした。
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