-
魚釣五郎(30才)うおつり ごろう。あだ名は“釣り五郎”。職場は海川商事。好きな寿司ネタはエンガワ
-
鰒田一平(52才)ふぐた いっぺい。魚釣五郎の上司。休日は釣り三昧。好きな寿司ネタはヒカリモノ
-
舟山杜氏(68才)ふなやま とうじ。五郎が勝手に“師匠”と命名。神出鬼没のアングラー。好きな寿司ネタは赤貝
前回のマハタ釣りで大物を釣り上げ、何かを掴んだ気がした五郎だったが、営業成績が徐々に上がりはじめたこともあり、しばらく多忙を極めた。釣りに行く暇もなく、課長に釣果を報告する機会もなかったのだ。そんなある日、ふと課長の顔を拝みたくなり、デスクに向かった。しかし、すでに退社したという。いつも最後まで残っているほどワーカホリックなのに珍しい。次の日も帰り際に立ち寄ったが、帰宅していた。どうしたんだろう? 気になった五郎は翌日も夕方に再度、課長を訪ねることにした。
五郎の言葉に振り返ることなく、そそくさと帰っていった。家庭の事情だろうか? 奥さんが倒れてしまったとか? ただ周囲に尋ねても、そんな話は聞いていないし、日中はいつも通り、明るく仕事をしているという。それでも五郎には違和感が拭えなかった。仕事が最優先で、家族サービスに精を出すタイプじゃないのに。ひょっとして、飲み屋のママにでも入れあげているだろうか? 後日、早めに仕事を片づけた五郎は、退社する課長の後をつけてみることにした。オフィスビルを出ると、足早に駅へと向かう課長。ほどなく駅に着いたのだが、改札には入らず、雑踏を突き進んでいく。その視線の先にはコインロッカーがあった。大型のロッカーの前で立ち止まり、何やら長いバッグを取り出した。あれは竿だ! 釣りに行くんだ。でも、こんな平日の夕方から? 五郎は思わず、課長に駆け寄った。
「なんだ、魚釣か、びっくりさせるなよ。見つかっちまったか。これから夜アナゴに行くんだよ。悪いな、急ぐから」
“夜アナゴ?”という聴き慣れない言葉を残して、課長は去っていった。心が躍っているのか、足取りが軽い。あっという間に背中が見えなくなってしまった。それにしても、夜アナゴってどんな釣りなんだろう。ここのところ連日のように、課長は出かけているみたいだし、気になる。夜アナゴは東京湾の初夏の風物詩だと聞く。例年4月中頃からスタートし、7月末にかけてがシーズン。夕方に港を発ち、夜10時前後には戻ってくるため、仕事終わりに駆けつける常連客もいるという。夜風に吹かれながらの釣りも、なんだか楽しそうだ。俄然、興味が湧いてきた五郎は早速、週末に挑戦してみることにした。
アナゴは「小突き釣り」と呼ばれる、仕掛けを一度、海底まで落とし、オモリでトントンと底を小突くように誘う釣り方が一般的だ。以前、挑戦したマダイやワカサギにも似た手法といえるだろう。これまでの経験が生かせるのではと、マハタで得た自信もあり、五郎は楽観的になっていた。どうやってアナゴを食そうか、頭の中はレシピのことでいっぱいだった。
夕方5時。まだ明るい時間帯に船宿に到着し、五郎が受付を済ませていると、続々と釣り人が集まってきた。へー、なかなか人気があるんだな。キョロキョロと辺りを見回していると、スタッフが声をかけてきた。
「あーちょっと、その竿じゃあ、柔らかすぎるかもしれないね。もっと硬いロッド持ってきていないの? 貸そうか?」
五郎は今回、衝動買いした自分の竿を持参していたのだが、しなりやすい竿では、底を小突きながら、繊細なアナゴのアタリを捉える難しいというのだ。しかし、購入した竿を試したい気持ちと、妙なプライドがあり、五郎はその申し出を断った。
川崎の港を出発した船は東京湾を横切るように疾走。30分ほどで木更津沖までやってきた。まだ陽は沈んでおらず、頬に触れる風も生暖かい。船長の号令で一斉に仕掛けを落とす釣り人たち。日没の前後が最初の狙い目なのだという。五郎も慌てて、エサの青イソメを針につけ、見よう見まねで竿を動かす。オモリが海底に着いた手応えを感じたら、糸のたるみを巻き取り、竿を上下させながら、コツコツと海底を叩くのだ。しばらく反応がなかったら、エサが取られていないか、回収し、再び仕掛けを落とす。その繰り返しだ。
「来た!」
そんな声が船のあちこちから聞こえ、次々とウネウネと光るアナゴが引き上げられていく。しかし、五郎に掛かるのは、この時期になると大量発生するというアカクラゲばかり。釣れるどころか、アタリすら感じることができない。
ほんの数メートルしか距離が離れていないのに、どうして自分のエサにはアナゴが食いつかないんだろう……。やっぱり竿がいけなかったのだろうか? 少しは釣りが上達したかもと、抱いていた小さな自信が音を立てて崩れていく。そんな五郎の苦戦ぶりを見ていたのか、気がつくと船長がすぐ側に立っていた。アナゴ釣りではポイントを決めると、イカリを落として、その場で釣りを行う。そのため釣っている間は船を操作する必要がないのだ。
「やっぱり硬い竿を貸してあげればよかったかもね。一度、シンプルな仕掛けに変えたほうがいいかもしれないよ。あとオモリを底から上げ過ぎないようにね。オモリひとつ分くらいでいいよ」
その後も船長のアドバイスが続く。
「エサはもっと小さくていいかもしれない。今日はアナゴの食いも鈍いみたいだから。モソモソって何か違和感を感じない? それが合図なんだけど」
船長の言葉を噛みしめながら、トライしてみるが、なかなか上手くいかない。また隣でヒットしたみたいだ。勢いよくリールが巻かれ、ヌメヌメと光るアナゴがあっという間に船に上がった。見れば、師匠だった。視線に気づいたのか、笑みをこちらに向けている。
「糸がたるまないように、張った状態をキープしたほうが小さなアタリもしっかりわかるよ。アナゴはエサを捕るのが上手いから、たるんでいるとエサだけ盗られちゃうかも。あと、アタリを感じたら、一気に竿を立ててしっかり針をかけてね。アナゴは口が硬くて、針が外れやすいんだよ」
船長だけではなく、師匠も五郎に何とか一匹釣らせたいのだ。いや、船全体が五郎にヒットすることを願っていたといって良いだろう。
そのとき五郎はエサを一気に持っていかれるような強い引きを感じた。師匠のアドバイス通り一気に竿を立てて、慌てて糸を巻く。
「来たかも!」
五郎は無我夢中だった。重くなった竿を片手で支えながら、大急ぎでリールを回し続ける。すると、黒い物体が海面から勢いよく飛び上がってきた。アナゴだ! それを見て、船長も師匠も叫んだ。やったー。ついに釣れた。五郎は自然とガッツポーズをしていた。船長は五郎の初アナゴを見届けると、船のマイクを握った。
「竿しまって。時間なので、そろそろ帰るよ」
自分が釣れるまで、待っていてくれたのか。五郎は申し訳ない気持ちだった。自己流を貫かず、最初から船長のアドバイスを聞いておけばよかった。師匠にも素直に教えをこえばよかった。マハタの成果に酔って、釣りが上手くなったと勘違いしていたのだ。狙うターゲットが変われば、竿や仕掛けも変わる。同じ場所で釣っていても、その日の魚の活性で誘い方も変化するのが、釣りなのだ。
五郎の悪い癖だった。仕事でも契約が取れてくると、すぐに調子に乗りはじめてしまう。たまたま契約できただけなのかもしれないのに、大きなことを達成したかのような気になってしまう。まずは熟練者や先輩の声に耳を傾けるべき。そんな謙虚な姿勢を五郎は学んだのだった。
TEL:044-233-2648