私の名前は「魚釣五郎」。海山商事で働く30歳。会社では営業を担当しているが、毎月の契約本数はパッとしない。下から数えたほうが早いだろう。おっと、課長の呼ぶ甲高い声が聞こえた。また小言か……。
「ヒ、ヒラメ?」。そういえば、釣りが趣味の鰒田課長は、興奮するとすぐに“釣り”や“魚”で、たとえ話をしてくると社内の誰かがいってたっけ。どうせ俺は昔、デッカいヒラメを釣ったことがあるとか、そんな自慢話の類だろう。ここはひとつ座布団サイズのヒラメでも釣って、課長の鼻を明かしてやるか。そして週末、千葉県の片貝港に来ていた。
船釣りなんて、子どもの頃に一度、親父に連れられて行った記憶があるくらいだ。勝手がわからず、二三丸という船宿を見つけ、電話をすると、竿もリールも全部、借りられるとのこと。その言葉を信じて、手ぶらで港に来たのだが……。
それにしても、ヒラメ船の出港は早い。まだ午前5時。辺りは真っ暗だ。しかし、釣り人が続々と集まって来る。慌てて受付を済ませ、釣り船に乗り込んだ。船はすぐに釣り人でいっぱいになり、夜明け前に港を発った。片貝港のある外房では、秋になると連日、ヒラメ船が出港するという。なかでも、今回乗船した二三丸ではライトタックルという軽い重りを使う初心者にも優しい釣り方でヒラメを狙うとか。
全部、隣に座った、おじさんから聞いた話なんだけど。いかにもベテランといった風貌の釣り人で、私は心のなかで「師匠」と呼ぶことにした。
船を走らせているうちに、ようやく太陽が地平線から顔を出す。船のスピードが緩み、漁場に到着したようだ。船長の「はじめてください」の号令を合図に、一斉に仕掛けを海に垂らす釣り人たち。私はというと、慣れない餌付けに大苦戦。生きているイワシを掴むだけで、ひと苦労だ。もたもたしている間に“師匠”の竿に、早くも当たりがあったようだ。
その様子を見ていたのか、網を持った船長が駆け寄ってきた。ゆっくりと師匠がリールを巻き続けると、船長が阿吽の呼吸でサッと網を海面に差し出す。ヒラメだ。しかし、師匠と船長に笑顔はない。聞けば、サイズが小さいのだという。
「よし、私だって!」。仕事では最近、良いところがないけれど、釣りなら楽勝でしょう!
隣で釣れて、私に釣れないわけがない。しばらくすると、ズズズと何かに竿を引っ張られるような感触が伝わってきた。「よっしゃ!」。勢いよくリールを巻くが、上がってくるのは自分が付けたイワシのみ。何度やってもヒラメの姿がない。これはどういうことだ?
5mと離れていない場所で釣っている師匠と私。仕掛けや餌も同じだし、師匠に教わった餌の付け方もマスターしているのに、どうして私だけ釣れないんだ? 答えがわからず、焦りだけが募っていく。そして、師匠が発した“本気”という意味深な言葉。
その後も時折、グンという当たりようなものを感じて、サッと竿を上げるが、餌が残ったままだ。まるで釣れる気配がない。かといって、当たりに“遊び”と“本気”があるようには思えないのだ。
途方にくれ、助けを求めるように師匠のほうに視線を移した。すると、師匠の竿先に反応が。ヒラメだ。しかし、気づいていないのか、師匠は悠々と構え、一向に巻き上げるそぶりを見せない。10秒、20秒と、時間だけが過ぎていく。ああ、逃げられちゃうよ。そして30秒以上が経っただろうか。ようやくリールを持つ師匠の手が静かに動き出したのである。
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